秋のケベック州(カナダ)③:/旧跡を散策しながら、ケベックの特殊な歴史を想うQuebec in Autumn (Canada)③: While strolling through the historic sites, I reflect on Quebec’s unique history
A Trip to the Suburbs of Quebec City
On the second day in Quebec City, before exploring the historic sites in the city, we visited Montmorency Falls in the suburbs. Then, we traveled along the oldest public road in North America, known as ‘Avenue Royale,’ to reach the Basilica of Sainte-Anne-de-Beaupré.
(English text is to be followed soon)
ケベックシティ郊外へ遠足
ケベックシティ2日目は市内の史跡を訪ねる前に、郊外のモンモランシー(Montmorency)滝を訪ね、さらに「王の道(Avenue Royale)」と呼ばれる北米最古の公道を通ってサンタンヌ・ド・ボープレ大聖堂(Basilique Ste-Anne-de-Beaupre)へ。
まずはケベックシティ市民の憩いの場としてお馴染みのモンモランシー滝。セントローレンス川に沿った国道の前に突然広がる光景に息を吞む。ゴンドラや遊歩道などがしっかりと整備されており、ケベックシティ市民には長年にわたるハイキングの場なんだと感じた。
インフォメーションセンターからゴンドラで滝の上部に登り、そこから遊歩道を歩いてセンターまで降りてくる。ちょうど1時間程度の行程だ。遊歩道では若干の紅葉も見られたものの、やはり盛りには程遠い。途中にはジップラインの設備やキヨスクの建物もあったが、営業はすでに休止していて、バカンスシーズンはほぼ終わりみたいだ。
モンモランシー滝に別れを告げて、「王の道」と呼ばれる国道を20分ほど走ると大聖堂を擁する街サンタンヌ・ド・ボープレに着く。
サンタンヌ・ド・ボープレ大聖堂は北米カトリックの三大巡礼地の一つ。特に病気や障害を抱えた信者の巡礼地として知られ、柱の一つには足に障害を抱えた人々が願いを込めて納めた松葉杖が多く公開されている(上写真4枚目)。実は同じような松葉杖の納め物はフランスのルルドの泉でも見られるが、これはあくまで願をかけた時に納めるもので、一部で喧伝されているように「願をかけて足が治って歩けるようになった信者が松葉杖を置いていった」わけではない。伝説の始まりは1658年に初めて聖堂の建設が始まった時に、脊柱側彎症で松葉杖無しで歩けなかった信者が工事に参加した途端に快癒したというものだそうだ。この話が北米の信者の間で急速に広まり、障害を抱えた多くの信者が巡礼で訪れる地になった。現在のゴシック様式の聖堂は1923年に建造されている。また守護聖人は聖アンヌで、彼女の指と手首の骨が納められているそうだ。訪れた日がちょうど日曜日だったため会堂では礼拝が行われており、この日ばかりは観光客のための大聖堂ではなく、教会本来の姿に戻っていたかのようだった。
大聖堂の周りで昼食を食べようと思ったけど、どうもピンとくるところが見つからず、車で街の裏通りを走っているとなかなかしゃれた外観のオーベルジュがあり、ここに入ってみることに。
入ってみるとかなり大きなスペースで広大な庭がベランダの向こうに広がっている。メニューはビュッフェスタイル一択で、大きなテーブルに大皿が並んでいる。この数々の料理がまたすべて美味い!特にデザートは言うことなし!あまりお腹が空いていないことが悔しいほどに、レベルの高い料理ばかりだった。入ってみて分かったことは、ほぼ満員のこのレストランの客は子供までいずれも正装しており、どうも先ほどの教会で礼拝をした帰りのサンデーランチのようだ。思いがけず平和な村の暮らしの一部を経験できた午後になった。
ケベックシティの史跡からユニークな歴史を想う
午後はケベックシティに戻り、アブラハム平原を中心に史跡と博物館を巡ることに。アブラハム平原はかつて1759年にフレンチ・インディアン戦争が戦われたところ。1534年からフランス人勢力は現在のケベック州周辺に入植を試みており、やがて毛皮、特に簡単に捕れるビーバーの加工品がヨーロッパで大流行するなどして重要な交易品となっていく。1603年にはフランス人による植民地ヌーベルフランスが形作られた。ただイギリスも同じ時期から北米への植民、興業に力を入れており次第に両国の対立が鮮明となっていく。1754年にはアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンがヌーベルフランスを攻撃し、戦争は本格化、1759年にその決戦の場となったのがアブラハム平原。ここでイギリス軍がフランス陣営を破り、ヌーベルフランスはイギリスの統治下に置かれることになった。北米植民地戦争の中でも、大きな転換点となる戦いがここケベックシティで行われた。
近代のケベックシティはカソリック教会からの反発などで工業化の波に乗り遅れ、一時は忘れられた都市とも言われた。またイギリスやアメリカの脅威の中でフランス語を日常語とする住民は一段低いレベルのように扱われていたことも事実。しかし第二次大戦後に起こった「静かなる革命」などを経て、独自の教育制度の浸透と経済政策の奏功でケベック州は力を取り戻し、同時に抑圧されていたフランスナショナリズムもその存在感を高めていった。1977年には「フランス語憲章」が採択されて、公共の表示物でフランス語の優位的割合を具体的に定めるなど、「フランス語話者」としての誇りを取り戻す制度が確立しているが、自分が旅をしていて感じたのは、住民のほとんどは自在にアクセントのない英語を話し、フランス語ができなくてもまったく旅に支障はない。ところどころで交通標識がフランス語だけであるのには閉口したが、スマホの自動翻訳でほぼ問題なく意味は分かる。
歴史博物館の中にあった晒し台、おそらく捕虜の拘束に使ったものか。
前日に巡った旧市街に隣接した要塞シタデル、ちょっと函館の五稜郭を思わせるフォルム。石垣の間のスペースでは子供たちが、多分18世紀の服装で何かのパフォーマンスの練習をしていました。
明日はケベックシティを離れ、モントリオールに戻ります。