敗者日本の占領はすでに始まっている?『77年』は日本民族独自の興亡サイクルか Is “Loser Japan” already being occupied ? “77 years” is original cycle of rise and fall for Japanese people
・今年(2022年)は「終戦77年」。ふと思いついたのだが明治維新(1868)から終戦(1945)までの期間も同じ77年だ。ひょっとしたら「77年」という期間は、日本民族にとっての廃墟からの立ち直りと成長、そして凋落・破滅に至る独自の興亡サイクルなんじゃないだろうか。
・戦後の77年はまさに焼け跡からの復興によって世界第2位の経済大国へと成長しながら、その後の「失われた30年」で“凋落国”となり果てた期間とも言える。もちろん目先で前回のように敗戦による破滅という見通しはないものの、実はすでに、壊滅的な状況の政界、IT化への決定的な出遅れと世界シェアを失くした工業製品、財政と金融政策の失敗でジャンク化する通貨価値、という環境の中で、外国資本による日本の政治経済的な“占領”が始まっているのではないか。
・前回の終戦前と現代の状況で奇妙に符合するのは、両方の時代に「人々の思考を一瞬で停止させる殺し文句」が存在すること。戦前の場合は『非国民』、現代では『自己責任』、この言葉を口にした途端に、現実に存在する問題に人々は目をつむり誤った状況には疑問を持たなくなる。日本という国が破滅に至る直前には、こうした国民の“誤りを正す力”を封印する仕組みが現れる。かくして誰もが明らかな認識を持たないまま、国家としての凋落と破滅への道が進行していく。
・「日本の凋落」はもはや仮説でも予測でもなく「進行中の現実」だ。この方向を変えようとするにはすでに遅く、これから国民が考えなければならないことは、『焼け跡からの復興』ではないかと感じる。
(English text is to be followed soon)
今年は終戦77年、明治維新から終戦までと奇しくも同じ
今年も8月15日の終戦記念日を迎えた。今年は1945年の終戦から77年、ふと気づいたことだが、77年という期間は明治維新(1868)から第二次大戦敗戦(1945)までとまったく同じだ。
明治維新からの77年間はまさに侍と鎖国の時代が終わり、社会構造の大混乱の中でゼロから近代化に必死に取り組んで国力を蓄え、日清、日露、第一次世界大戦に勝ち抜いて一時はアジアの一等国となりながら、不況と社会不安の中で極端な国粋主義に溺れて狂気の戦争に突入して焦土の中で敗戦を迎えた期間だ。言うなれば廃墟からの再出発と成功、そして道を誤って破滅に至るサイクルだ。以前に『時代も国土も煮詰まっているのか?(リンクあり)』という本Blogの記事で、日本の歴史は70-80年に一度の規模の天変地異と災害によって導かれているという仮説を書いた。スクラップ&ビルドを繰り返してきた日本にとって70-80年というのが、日本民族にとって独自の『興亡のサイクル』なんだろうか。
戦後の77年もすでに「興亡と破滅」を表していないか?
終戦からの77年を観ると今さらながらだが、焼け跡からの奇跡の復興と経済繁栄はせいぜい40年足らず、現在まですでに30年以上低迷の時代がつづいていることに驚く。その歴史は、まさに敗戦で焦土と化した国土と戦勝国アメリカによる“占領日本”から始まった。しかし東西冷戦の中で地政学的な要とされたことで、日本は独自のポジションを認められ、さらに朝鮮戦争による戦争特需もあって、アメリカによる軍事の傘に入り経済に専念したことで急速な復興と高度成長が実現、まさに廃墟からの復活を遂げた。しかし80年代後半のバブルの狂宴が90年代に弾けると、そこから『失われた30年』が始まる。日本の凋落の引き金を引いたバブル崩壊と、東西冷戦体制の終焉がほぼ時を同じくしているのは奇しきタイミングだ。「護送船団方式」という戦後日本の金融システムは早々と崩壊、今世紀に入ってからもIT投資への決定的な遅れのほか、かつては日本が覇権を握っていた工業製品の多くがアジアを中心とした他国にシェアを奪われている。DRAMやら液晶パネルなど一昔前には日本が圧倒的な世界シェアを握っていながら、現在ではほぼゼロシェアになっている製品は枚挙に暇がない。さらにそうした製品を作っていた大手製造業でも、自社による開発と製造を止めてしまって外部サプライヤーから仕入れた部品に自社ブランドをつけて売るだけになってしまったところもあるし、経営陣がいつの間にか外部ファンドからのプロ経営者に代わってしまったところも多い。この30年の間に多くの先進国、途上国ともに成長を重ねているなかで、日本だけが低迷を続け、平均賃金に至っては韓国にも抜かれてしまった。1人当りGDPはすでに世界28位で、さらに下落基調を増している。
こうした経済凋落がそろそろ逆転する日が訪れるのか。それはまず有り得ない。経済とは「過去からの投資の刈り取り」という側面を持つ。失われた30年の中で、日本企業はひたすら目先のコスト削減だけに目を向け、設備投資のためのキャッシュを内部留保として貯めこんできた。現在の凋落は過去の成長投資の停滞が招いたものであることは自明の理。おそらくこれから起こることは、競争力を失った自動車、エレクトロニクス企業の淘汰、そして日本の“安くて美味しい部分”の切り売り、たとえば外国人に人気のある観光分野では、捨て値で売りに出ている各地のリゾート施設に海外投資家からの引き合いが相次いでいる。極端なところでは、オーストラリアを始めとした外国人にすっかり占領されてしまったニセコ(北海道)のような例もある。また意外なところでは外食産業。勤勉で安価な日本人労働力を酷使して安い食を提供するチェーン店は買収ファンドを中心に注目を集めている。いずれにしてもマネジメントとして利益を獲得するのは海外資本、安い労働力として使われるのは日本人という構図になる。すでに進もうとしているこうした動きは、経済的な“占領”に他ならないのではないか。
民主主義を崩壊させるキーワード:戦時中と現在
ウクライナへのロシア侵攻や、中国による台湾有事ムードなど、世界のきな臭さが増してはいるが、77年前のようにいきなり日本が文字通り焼け野原になる見通しは薄い。だが経済による占領はすでに着実に進行しているのじゃないのか。世界中が成長する中で日本だけが置いていかれて、特に労働者の相対賃金は継続的に何十年も下がり続けて韓国にも抜かれた。さらに雇用情勢の変化の中で日本独自の「年功序列」も崩壊すれば、日本の労働者は一生食うや食わずの賃金で、十分な年金の見通しもないまま働き続けることになる。このような絶望的な先行きの中で、政治も壊滅的な状況に陥りながら、日本では暴動も起きず、さらに政界に革命を求めないのは実に不思議なことだ。
民主主義が終焉を迎えるのは、国民が真実に目を背ける時だ。そこには往々にして、真実に目を向けず、思考を停止して誤ったプロパガンダだけに執着するためのキーワードが存在する。戦前の場合は「非国民」、治安維持法の体制下でこの単語を使われたら、もはや個別の経緯や事情などはまったく無視され一方的な犯罪者にされてしまう。今から考えると、なぜ戦前の日本国民は無謀と狂気に満ちた戦争に突き進んだのか、だれも疑問に思わなかったのか、と考える。しかし国全体が狂気に陥っているときには、集団的に現実から目を背ける仕組みがあるときだ。
現在においてもこのように安易に思考停止を促すキーワードはないだろうか。自分が個人的に非常に懸念するのは「自己責任」という言葉だ。以前にこのBlogで書いたように(【自己責任論】言葉は想いを伝えるが、同時に多くのものを包み隠す)、投資信託のリスク告知欄で使われていた「自己責任」というタームが爆発的に広まったのは、2004年のイラク日本人人質事件からだ(詳細は前Blog記事を参照)。紛争真っただ中で渡航禁止になっていたイラクに入った日本人3人が現地テログループに捕まり、彼らを人質に日本政府に対して自衛隊撤退などの条件が突きつけられた。人質の兄弟が日本の報道番組に出演し、当然の権利だといわんばかりに外務省の役員に食って掛かる様を見て、多くの国民がその身勝手さに呆れる結果になった。当時の外務省事務次官が「自己責任の原則を自覚していただきたい」と発言したこともあって、『自己責任』というパワーワードが燎原の火のように全国に広がった。ここで注目すべきだったのは、「自己責任」という言葉が、単に無謀な行動で窮地に陥った人に対してだけでなく、社会的に弱者の立場にある人間への宣告として一般化していったことだ。小泉政権から日本に中途半端にふりまかれた「新自由主義経済」のムードの中で、成功しなかった人間を一概に「自己責任」と斬り捨てることは何も考えずに済む快感を提供したのではないだろうか。新卒時に就職氷河期で40代になっても非正規雇用で生活苦にあえいでいる人間や、生活保護にも届かない収入しか得られないシングルマザー、あるいは十分な年金をもらえずに70を過ぎても働き続けねばならない人々に対して、そんな苦境に陥ったのは自己責任だと言い放つことに多くの人々が快感を覚える。だが、これは政治家にとっては実に都合のいい状況。社会で多くの人が政府の無策と間違った経済政策の犠牲となっている現状を「自己責任」の一言で済ませてもらえれば、政治家にとってこれほど楽なことはない。実際には日本の経済状況はその見通しも含めて、すでに暴動が起きてもおかしくないレベルにありながら、国民は都合の悪い部分は「自己責任」の一言で思考を停止させたまま、メディアにあふれる「日本凄い!」コンテンツに酔い痴れている。戦前もそうだったが、国民が現実に目を背け思考を停止した時に民主主義の判断も止まり、国全体が破滅に向かっていく。
小泉政権(2001-2009)では、政府が主張する構造改革のことを『麻酔なき手術』と称した。現在の状況はまさに『手術なき麻酔』ではないだろうか。
これから考えることは『焼け跡からの復興』
日本が経済的、政治的に“占領”されていくのは、もはや既成の事実だ。これまで世界に誇った製造企業は換骨堕胎されてグローバル競争からはじき出され、まだ成長余力のあるドメスティック分野では外国資本による占領が進み、その下で働き低価格を支えるのは、他国に比べてもきわめて安価の日本の労働者だろう。こうした動きは今さら止められない、こうした状況の中で何も気づくことなく黙っている日本の国民が異常なだけだ。
日本の長い歴史は「スクラップ&ビルド」の積み重ねだ。言い換えれば日本人は一度破滅を経験しなければ再建に動けない。もはや経済的な占領は進行中の事実で、政治もまったく無力化している現状では、この流れを今から止めることはできないのではないか。日本国民に意識が戻ることがあれば、まず考えるべきは「現状の改善」でなく、「焼け跡からの復興」ではないだろうか。未来を見通すことは困難だが、日本がいったん経済的に占領されてしまえば、明治維新や第二次大戦後のように“国としての復興”は厳しい。これからは日本人の一人々々が個人として世界の中で生きていく道を探ることが重要になるのではないか。日本の新卒時の一斉リクルートや年功序列(このシステムも間もなく崩壊するだろう)など、かつての日本独自の雇用システムの中でしか生きられない向きにはきわめて厳しい時代が続くだろう。スポーツの世界を見れば今や多くの日本人プレーヤーが外国で活躍している。経済人もこれに習えないわけはない。新しい日本人としてのグローバルな働き方を目指すべきだと信じる。